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とちぎの文化財

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2005.01.25

【木造十二神将立像】

  • 文化財種類:県指定等文化財
  • 市区町村:真岡市
  • 区分:有形文化財(彫刻)
  • 種類:指定

(もくぞうじゅうにしんしょうりゅうぞう)

●指定年月日

平成17年1月25日指定

所在地

真岡市南高岡

アクセス方法

 

公開状況  

 

所有者又は管理者

仏生寺

●文化財概要

 仏生寺は天応二年(782)に男体山頂をきわめた日光開山勝道上人誕生地であり、大同元年(806)創建と伝承のある寺院である。                 
 本尊の薬師如来坐像は、県の文化財に指定された12世紀初頭の作で、木造十二神将立像は薬師三尊像の安置された厨子の左右両側の壇上に、六体ずつ一列に配置されている。
 十二神将は薬師如来の説く経典を信ずる者を守護する護法神であり、人々を救済するために発した十二の大願の守護神でもある。また昼夜十二時や月にも関係があり、十二という数字が十二支の数字と一致するため、平安時代以降十二支獣の冠をつけた神将像が多くつくられた。一般に頭上に十二支の動物を付け、手に剣や戟、宝棒などの武器を持ち、甲冑をつけた忿怒の形相である。
 仏生寺の十二神将像は頭上に十二支獣の標識をつけ、岩座上に立つ神将像の姿で、本尊薬師三尊像の左側一列手前から辰、丑、申、子、午、未の6神像が並び、右側一列手前から酉、戌、亥、卯、寅、巳の6神像が並ぶ。十二支獣の標識は近世以降の作であり、足ほぞに記載された尊名も後世の文字で、両者の符合しないものもある。現在の薬師堂は寛保二年(1742)の建物であり、造立当初の正確な尊名や配列については不明である。  
 十二神将像の形態や身色、持物については諸説があって定型がなく、制作にあたって一つの図像を典拠に制作したのではなく、他の作例や十二支獣の性格を考慮しながら、群像としての統一性を保つため姿勢や容貌、髪形、服制、履物などバリエーションをもたせて単調に陥ることのないよう配慮しながら制作したと考えられる。   
 仏生寺像の場合は,十二体のうち正面向きが子、寅、卯、辰、午の5神像、左方向が丑、巳、未、戌、亥の5神像、右方向が申、酉の2神像である。     神将像の服制は、基本的には筒袖風の衣に大袖の衣、鰭袖の衣、袴、裳を着て下甲、襟甲、肩甲、表甲、胸甲、腹甲、腰甲、籠手、脛当、獣皮を着けるのが標準的な着甲である。しかし子、巳、午、戌、亥の5神像は、筒袖風の衣や袴、籠手、脛当の一部を着用せず、腕や膝以下を露出した像である。また獣皮を背面だけでなく前面にも着用する亥神像や、脛当と足首に獣頭の飾りをつける酉神像と亥神像がある。  
 頭髪はすべての髪を逆立てる炎髪は卯、午、戌の3神像。髪際に髪を逆立てる炎髪は丑、酉の2神像。髻を結う未、申の2神像。以下頭頂部で炎髪を逆立てる巳神像。
宝冠を着ける子神像。兜を着ける辰神像。髪を元結で縛り、如意雲形の冠を着け髪束を三つに振り分ける寅神像。後頭部で髪束を房状に振り分け、先端にウェーブをかける丑神像など7種類に分けられる。
 容貌も開口して全身で激しい怒りの表情をあらわす卯、辰、巳、酉の4神像。閉口して感情を抑制気味に怒りをあらわす丑、午、申、戌の4神像。これら忿怒相の8神像に対して、神将像としては比較的おだやかな表情の子、寅、未、亥の4神像。このうち童子形の亥神像や若々しい青年のような風貌の寅神像、老貌の子神像など他の十二神像には類例を見ない多様な表情である。                  
 履物は4種類、長靴が卯、午、戌の3神像、短靴が丑、寅、辰、巳、未、申の6神像、草履が子、酉の2神像、裸足が亥神像である。               以上のように、十二体は変化に富んだ造形であり、配列に際して本尊薬師三尊像や左右の十二神将像との関係を考慮に入れながら造作したのである。  造形的には頭部と体部のバランスもよく、全体が有機的に連動して不自然さを感じさせない。また甲冑や着衣にも質感があり、頭髪も風になびいて自然である。   
 十二神将像のように激しい怒りの形相を示す像は、動きが誇張すぎて自然観照に欠けたものが多いが、仏生寺像は抑制力のある動感であり、忿怒の表情や筋肉の表現も巧みで、13世紀も後半ごろの優作である。                  
 現状は江戸時代の表面褐色漆塗りや持物、宝冠、頭部の十二支獣、両腰脇の天衣、台座の礼盤座が江戸時代のものに変わっている。手首の先や袖、裳などの欠失した部分もある。台座に安永四年(1775)の墨書銘があり、その時に修理したものと思われる。
 県内にある鎌倉時代の十二神将像は、現在のところ医王寺(粟野町)にあるだけで、十二体がそろっており大変貴重である。