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とちぎの文化財

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1975.04.30

【絹本著色 秋山覓句図】

  • 文化財種類:県指定等文化財
  • 市区町村:栃木市
  • 区分:有形文化財(絵画)
  • 種類:指定

(けんぽんちゃくしょくしゅうさんべきくず)

●指定年月日

昭和50年4月30日指定

所在地

栃木市都賀町大柿

アクセス方法

 

公開状況  

 

所有者又は管理者

個人所有

●文化財概要

田崎草雲(たざき・そううん)
1815年-1898年(文化12年-明治31年)
江戸神田小川町足利藩邸(現東京都千代田区)に足軽であった田崎恒蔵、マスの長男として生まれる。幼名■助、のちに頼助。父は翠雲と号し文人画を描いて生計の一助にしており、この環境の中で草雲の素養が培われた。1822(文政5)年、春木南湖の弟子で親戚でもあった上野国島村(現群馬県佐波郡)に住む金井鳥州に師事する。この頃、関東平野を流れる利根川を中心とした両毛地方では織物業の活況を背景に地元の有力者たちによって盛んに書画会などが催され、草雲はこうした集まりや後援者の元に身を寄せていた。1829(文政12年)には川崎の隠士加藤梅翁に入門し、四条派のほか和歌や俳句も学んだ。1831(天保2)年加冠、名を芸、諱を明義、字を崇徳、通称を恒太郎と改め、また梅溪と号した。翌年字を草雲とし、1834(天保5)年、足利藩を脱藩。本格的に絵の道を志す。翌年、春木南湖の子春木南溟に師事。また谷文晁や渡辺崋山に私淑。徐煕、盛茂燁の作風をも学ぶ。この間1853(嘉永6)年に足利藩主戸田忠文に藩の絵師として登用された。
不安定な政情の中、草雲は勤皇をとなえ1861(文久元)年、民兵養成策を藩主に建言。1865(慶応元)年には農商家の子弟を集めて誠心隊を組織、自ら総司令として奔走した。維新後再び画道に専念。文久元年以降足利町(現栃木県足利市)に住んでいたが、1878(明治11)年同町蓮岱寺山麓に画室白石山房を建設し以降この地にて作画に励む。1875(明治8)年には還暦を記念し三白翁と称す。1877(明治10)年、第1回内国勧業博覧会に出品した作品は、外国人の注目を集めその後各国公使館から揮亳の依頼を受けた。これを皮切りに、1879(明治12)年、パリ万国博覧会に出品、名誉賞牌を受け、次いで1882(明治15)年第1回そして翌年の第2回内国絵画共進会で銀印(銀賞)を受賞し、さらに1889(明治22)年のパリ万博では再び名誉賞牌を、1893(明治26)年のシカゴ万博では名誉大賞牌を受けるといった活躍ぶりをしめした。また1887(明治20)年、皇居造営に際し杉戸絵を描く。さらに皇室による美術家の保護奨励を目的として制定された帝室技芸員制度により、1890(明治23)年に橋本雅邦、森寛斎らと共に帝室技芸員に任じられた。1898(明治31)年、足利の自宅で死去。
幕末から明治にかけ一時興隆を見た文人画も、当初みられた、文人として自由な精神世界を追求し、絵としての表現に高めようとする意識がうすれ、一種の絵画様式として形式化、さらに形骸化していった。このような状況の中で草雲は、長崎派はもちろんのこと四条派、琳派にまでいたる多彩な表現の研究を続け、洋画の導入により激しく変化する日本絵画の近代化に対応して行こうとした。草雲の求めたものはもちろん脱俗性、反権力性を指針とした文人精神を全うすることであった。それと同時に、絵画表現の問題、芸術性の問題を明確に意識していたことは、彼の多くの作品から理解することができる。その意味で、草雲の存在は、画派としての文人画の自立そして社会的地位の確立を目指した高弟小室翠雲ら次代の活躍を準備したといえるかもしれない。