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とちぎの文化財

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2001.02.13

【板絵著色 日光三所権現】

  • 文化財種類:県指定等文化財
  • 市区町村:日光市
  • 区分:有形文化財(絵画)
  • 種類:指定

(いたえちゃくしょく にっこうさんしょごんげん)

●指定年月日

平成13年2月13日指定

所在地

日光市萩垣面

アクセス方法

 

公開状況  

 

所有者又は管理者

興雲律院

●文化財概要

 中世日光修験の隆盛を今に伝えるものとして、三所権現や役行者、勝道上人を描いた板絵が知られている。それらは、ほぼ14世紀前半の紀年銘を持つ中世前期のものであり、山伏たちの、十界修業における籠り修行や、行法伝授の道場兼宿泊施設である「宿坊」の本尊として祀られていたものである。在銘のものは、鎌倉後期が8枚、南北朝期が2枚で、正和2年(1313)から延文2年(1357)に及んでいる。また、紀年を欠く2枚も知られている。その多くは、日光山地五山(男体山、女峰山、太郎山、大真名子山、小真名子山)に入る手前の「深山宿」をはじめ、夏峰修行に関係するものと言われている。
 なお、三所権現とは、仏典に言う霊山補陀洛山(日光二荒山に転化)に擬された日光の主山男体山を中心とする山岳宗教が、密教との親和性から天台宗のてこ入れを受け、その仏本神迹の山王神道のもと、熊野信仰に倣った、男体権現(男体山=二荒山)-大貴巳命-千手観音、女体寂光権現(女峰山)-田心姫命-阿弥陀如来、太郎権現(太郎山)-味 高彦根命-馬頭観音 との神仏混一の三山信仰に大系づけられたものである。
 しかるに、本作品、興雲律院所蔵の「日光三所権現板絵」は、年代がやや下って、天正13年(1585)、桃山時代の紀年銘を持ち、修験全盛の室町時代を経て、下り坂を辿りつつあった時代の作という若干性格を違える遺品である。この時期、日光山は座禅院を中心に、鹿沼をも掌中に入れていた壬生氏の影響下にあったが、その5年後の天正18年(1590)には、壬生氏が小田原北條勢に組していたことから、小田原征伐を果した豊臣秀吉によって、その社領の大半が没収されるという、まさに日光山衰退の直前という微妙な時期でもあった。
板裏の墨書銘には、

    御影筆権大夫宣柳

    朝乗房権大僧都宥圓

       願主伊勢 圓

     奉新造内権現三所御影

         筆者能観坊俊設

           天正十三年乙酉歳九月吉日 敬白 

 とあって、当時の権大僧都の朝乗房宥圓が、伊勢 圓を願主として、絵師権大夫宣柳に描かせたものと判かる。墨書は祐筆能観坊俊設であるが、この人物の名は、鹿沼天神町の天満宮の天正17年(1589)新造の小宮殿の屋根部分の墨書名にも、座禅院昌淳寄進の際の大願主として名を留めており、日光山東山と記され満願寺(後代の輪王寺)の85坊の一坊の住職と確認でき、板絵制作の世話役的立場にあったと推定される。
 本品は、最近まで、興雲律院の境内に享保17年(1732)建立された三天堂の御内陣本尊として、江戸期の東照大権現の小木像とともに祀られていたもので、寺伝では、隠居の身で寺の後援をしていた是心(元観徳坊住職傳能)の世話で日光の瀧尾から移されたものと言う。画面を墨線で三分割し、胡粉地の下塗りの上に、左太郎権現、中央男体権現の二人の男神を四足の台座に束帯姿で正座する様を右向きで描き、右の女体寂光権現を左向きに五衣唐衣姿で同様に描く。ともに背後に三折りの屏風を配し、松・竹・梅を描き込んだ繊細な金碧花鳥画は、当時流行の狩野光信の画風の流れをも彷彿とさせる。男神像は太刀を右手脇に立て掛けているが、これは武将肖像画の影響を受けたものとして、当時の時代の好みを感じさせ、興味深い。
 板絵が製作された天正の末年は、また、過酷さと遭難者の続出から夏峰修行を廃絶しようとの時期であり、あるいは夏峰最後の余光を物語る証人たる貴重な遺品と言えるかも知れない。