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2021.03.26

【茂木家文書(百通) 附 茂木家文書目録(宝永七年六月)】

  • 文化財種類:県指定等文化財
  • 市区町村:茂木町
  • 区分:有形文化財(古文書)
  • 種類:指定

(もてぎけもんじょ(ひゃくつう)つけたりもてぎけもんじょもくろく(ほうえいしちねんろくがつ))

●指定年月日

令和3年3月26日指定

所在地

芳賀郡茂木町大字茂木

アクセス方法

真岡鉄道茂木駅から徒歩約5分

公開状況  

随時

所有者又は管理者

茂木町

●文化財概要

 茂木家文書は、茂木家伝来の古文書群で、全100通からなる。茂木家は、鎌倉初期から戦国末期に至るまで、中世を通じて茂木の領主であった下野を代表する中世武家の一家である。
 戦国末期、茂木氏は常陸の佐竹氏の配下となり、秋田藩重臣として天和3年(1683)に十二所城代について以降、明治維新まで存続した。この間茂木家文書は歴代当主が相伝したが、明治33年(1900)前後に、当主から茂木家旧臣であった吉成家へ譲られたという。その後、令和元年末まで秋田県在住で、茂木氏の家臣の家系である吉成家が所有していたが、茂木町が実施した調査を契機に、令和元年に町に寄贈された。

【文書の内訳】
 鎌倉期では、八田知家が建久3年(1192)に本木(茂木)郡の地頭職を補任された鎌倉将軍家(源頼朝)政所下文などがある。承久4年(1222)から、応永11年(1404)までの歴代当主の譲状や置文などの写計15通を貼り継いだ茂木家証文写は、諸国に及ぶ所領相続の実態を示す一括写本である。
 南北朝期では、後醍醐天皇綸旨2通など、建武政権から茂木知貞が知行されている文書がある。そして、知政が足利方としての軍功を報告した茂木知政軍忠状、知貞に勲功として茂木保一円を宛行った足利尊氏袖判下文、尊氏の死後、子の鎌倉公方足利基氏が茂木知世に南朝方の退治を命じた御判御教書などがある。
 室町期には、足利持氏が満知に軍功賞として茂木保内の所領を宛行った御判御教書などがある。
 戦国期では、茂木持知が要求した所領安堵を軍功により承認した足利成氏袖加判茂木持知申状、佐竹義舜から茂木氏への知行宛行状、茂木氏に友好関係を求めた信玄(武田晴信)書状などがある。
 茂木家文書の保存状況をみると、100通の文書は二つの木箱に分けて保管されてる。茂木家文書には、天地に焼損や水損がみられる文書が多く、かろうじて一括焼失の危機を免れたことがうかがえる。
 また、木箱には、宝永7年(1710)6月付の「秋田史館」の印が押された茂木家文書目録が同梱されている。これは、秋田藩が近世前期の元禄年間から藩内の古文書を調査し「秋田藩家蔵文書」を編纂した際の預状目録である。調査・編纂後に散失した文書10通を含む110通の茂木家文書が書き上げられており、宝永7年時点での茂木家文書の内容と相伝の歴史を記録した史料である。

 このように茂木家文書は、鎌倉初期から南北朝・室町・戦国・江戸初期まで、時代の偏りなく相伝している古文書群であり、その質量ともに充実した内容は、下野はもとより東国の中世武家文書の中でも傑出している。