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とちぎの文化財

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1921.03.03

【足利学校跡(聖廟および附属建物を含む)】

  • 文化財種類:国指定等文化財
  • 市区町村:足利市
  • 区分:記念物(史跡)
  • 種類:指定

(あしかががっこうあと (せいびょうおよびふぞくたてものをふくむ))

●指定年月日

大正10年3月3日指定

所在地

足利市昌平町

アクセス方法

JR足利駅から徒歩約10分

公開状況  

公開(有料)

所有者又は管理者

足利市

●文化財概要

 平面は台形状を呈し、参道が南に及ぶ。北西側に隣接する鑁阿寺同様に、土塁と堀で囲まれた居館状の景観であるが、堀の一部は埋められている。
 北辺の長さは145.6mで土塁(一部)と堀、南辺は127.4mで、土塁(一部)、東辺は127.0mで土塁と堀、西辺は91.0mで土塁が残されている。総面積は17,000㎡をこえる。
 伝承によれば、足利学校は応仁元年(1467)に旧地(国府野・現伊勢町)より移建したとされる。
 儒学のほか、漢、経、易、医、兵学や占トなどが講じられ、学徒3千と称されたほどで、かのフランシスコ・ザビエルは「坂東の大学には四方より好学の徒、雲集す」と記している。その後永祿、宝暦、天保、文久年中等に火災に罹りながらもその都度修理復興し、明治6年(1873)からは、聖廟(孔子堂)、学校門、入徳門等を残して東小学校になった。
 昭和57年度から発掘調査した結果、園池、方丈、祈祷殿、庫裏、学寮それに土塁、堀などの諸遺構と遺物が出土し、往年の足利学校の姿相が概ね明らかになった。
 足利学校の創立については、国学の遺制という説や、小野篁が創めたともいう説、足利義兼創建説もあるがはっきりしたことは分かっていない。確実であるのは中世に上杉憲実らの努力で復興したことで、戦国乱世の中にも学灯を絶やさなかった。応仁元年移建後の、学問、教育の遺跡としてまさに稀有の価値をもつ。なお、聖廟(孔子廟)裏には移建後の足利学校の歴代庠主と代官の墓地があり、また国宝の文書等を保存する収蔵庫、旧遺跡図書館建造物や、字降り松、楷樹(県指定)などがある。